もしも自分の愛する人が
その辺に落ちている石に
100万円の価値を見い出し
その石に幸福を感じて100万円を払い
心が豊かになるのはいけない事だろうか?
またその信仰を心の底から尊重できるだろうか?
【信仰の自由】
信教の自由(宗教の自由)とは、特定の宗教を信じる自由または一般に宗教を信じない自由をいう。
今村夏子さんの『星の子』を読んだ
あらすじ
この物語の両親は生後間もない娘の原因不明の湿疹に苦しむ。
ある日『金星のめぐみ』という
特別な《水》を貰い使ってみると
病気が回復する
それ以降、両親はその水を販売していた
新興宗教にハマっていく物語
《信仰心》について
すごい考えさせられた小説でした
病気が治ったのは事実
しかし水は公園のただの水道水
病気が治った事実と水の成分には
なんの因果関係もないウソだった
でもだからと言って
両親の《信じる心》を
否定してもいいのだろうか?
自分の頭の中で
善と悪。尊重と尊厳など
何が正しいのか
わからなくなってしまった
そして自問自答してみた↓
(Q)
もし自分の両親が定年退職をして
毎日淋しい生活を送っている
コミュニケーションを取る相手もいなく
暇を持て余していたとする。
問1
(親)
『新しいくできた友人と海外旅行をする事になって海外へ行こうと思うんだけど、どう思う?』
(自分)
『いいじゃん!行ってきなよ』
問2
(親)
『新しくできた友人とバンドを組むことになってギターを買おうと思うけど、どう思う?』
(自分)
『いいじゃん!やってみなよ』
問3
(親)
『新しくできた友人に幸せになれる壺をオススメされて、壺を買おうと思うんだけど、どう思う?』
(自分)
『…………。』
《壺》というワードにどうしてもブレーキがかかってしまう
旅行。ギター。壺。
これらの一体なにが違うのだろうか?
何に価値を感じるかの定義なんて人それぞれで
本人が幸せを感じられるのであれば
肯定すべきだと理屈では思う
しかし
『壺いいじゃん!買いなよ』
とはどうしても言えない自分がいる
愛情がある人ほど否定的になってしまう
世の中には多様な価値観がある
●ゲームの中の世界に大金を課金する人もいれば
●インスタに写真を上げる為だけに行動をする人もいる
●キャバクラやホストクラブに貢ぐ人もいる
●アイドルのCDを大量に買う人もいる
小説の1600円や映画の1900円は
興味がない人にとってはバカ高いだろう
幸せの形は人の数だけ存在する
お金を何に使うかはその人の自由だ
わかってはいるけど
自分の価値観で物事を判断してしまう
もしも家族や恋人や友人など
自分の愛する人が
信憑性のない人や物に
信仰心を感じ依存していたら
一体どんな行動をとるのが正解なのか?
『壺いいね!買いなよ』が愛情なのか
『壺なんて買わない方がいい』が愛情なのか
どちらが本当の愛なのだろうか
考えれば考えるほど答えが出てこない
そんな事を思いました
【後記】
『星の子』を読んでの自分なりの解釈ですが
新興宗教にのめり込んだ両親に対して
主人公の心境は
『親の信仰心を最後まで理解はしなかったけど
尊重という行為を選択したんだと思った』
《理解せずとも尊重する》
ってすごい難解な行為で
自分の心の器では大きすぎる
思考と行為だと感心してしまった
ではまたCiao!